三人の望遠鏡発明者
事情があって、望遠鏡の発明者を誰だというのは難しい。
13世紀には、ロジャーベーコンがレンズを組み合わせて、遠くのものを近くに見る工夫をすることができると述べている。そのほかにも、レオナルド・ディッグスといイギリスの天文学者や、イタリアのジョバンニ・バティスタ・デッラポルタ(著書・自然魔術が有名)などが16世紀に同様の主張をしている。
通常は、17世紀初期の望遠鏡の実用化において、発明者としてあげられる三人の人物のいずれかを望遠鏡の発明者と呼ぶ。
- Hans Lippershey
- Jacob Metius
- Zacharias Janssen
今回は上記の三名について、まとめてみる。
時代背景
17世紀の初頭は、スペインの隆盛から、オランダの黄金期へとシフトする時代だった。王の権力の時代から、資本と実力の時代が始まろうとしていた。
ネーデルラント諸州(現在のオランダ)がスペイン王国と80年戦争を戦っていたのは1568年から1648年、そのうち休戦していた1609年から1621年までの時代に望遠鏡や顕微鏡が発明され、一気に市場を拡大した。(前の時代においてスペイン王国がイスラム勢力と国土回復運動を戦っていたことと対比すると面白い。)
権力と縁故で結ばれた人々が社会を占めるとき、実力で生きようとする人々は自由な市場を求めるものだ。ときの権力に敵視されがちなマイノリティにとって、実力次第で逆転できる資本主義の時代は魅力的だ。
オランダに群立したいわゆるネーデルラント諸州には、ユダヤ人やプロテスタント、ユグノーなどが各地から流入し、交易のための港町が発達した。もちろん、文化や科学が一気に発達した。
光学技術の中心は、それまでは(やはり交易によって発達していた)ベニスやフィレンツェだったが、この時代以降、オランダやドイツへと拡大することになった。(もちろん、さらに時代を下ると、市民革命を経てイギリスやフランスへと拡大するのである。)
組みレンズの発明
初期の望遠鏡や顕微鏡の発明は、要するに2つのレンズによる組みレンズというアイディアの発見である。ここに至って光学機械が単レンズや単鏡でなくなったわけだ。
実のところ、この時代のレンズ職人がノウハウを秘匿することは珍しいことではなかった。望遠鏡の発明者を確定させる議論は、ひとつの特許論争をきっかけに表舞台に出た三名がピックアップされがちなのであって、おそらくさらに前の時代に本当の発明者が存在するのだと私自身は思っている。
また、例えば13世紀にはベネツィアやフィレンツェで眼鏡産業が始まっており、その後300年にわたってレンズ職人がレンズを磨き続けていたのである。もちろん、古代のレンズはそれよりさらに数千年遡ることができる。
長い期間、職人たちの目の前には沢山のレンズが並べられていたはずなのである。
ハンス・リッペルスハイ
リッペルスハイ(Hans Lippershey)は、望遠鏡の発明者の一人として知られる。
彼は「歴史上最初に望遠鏡の特許を主張した人物」で、彼の作った望遠鏡はトーマス・ハリオットやガリレオ・ガリレイが最初の天体観測に用いた望遠鏡のモデルとなった(実は天文への望遠鏡の応用は、地動説の主張で有名なガリレオよりハリオットの方が先である。)
リッペルスハイはドイツ生まれだが、その後オランダに移り、眼鏡職人として店を開いている。1570年に西部ドイツのベーゼルに生まれた彼は、24才のときにオランダのゼーランド州ミッデルブルグに移り住み、結婚した。32才のときに当地で市民権を獲得、49才で亡くなっている。
彼は1608年10月2日にオランダ総督に「遠くのものをあたかも近くにあるかのように見る方法」について特許を出願している。
3週間後に、後に述べるヤコブ・メチウスが特許を出願しており、紛争の末、リッペルスハイは特許を獲得することに失敗する。
リッペルスハイのデザインした望遠鏡の複製は、オランダ政府に納入された。あとの時代では、とくに軍事において望遠鏡の重要性が高まっていく。
ハリオットやガリレイを触発し、最初の天体望遠鏡観測を導いた。望遠鏡の普及に大きなインパクトを与えたことは間違いない。
ヤコブ・メチウス
ヤコブ・メチウス はオランダの装置開発者でレンズ磨き職人だった。
彼はアルクマールで生まれて、生涯をその地で過ごした。天文学者のアドリアーンスゾーン・メチウスの兄弟。彼もまた、望遠鏡発明者と呼ばれる三人のうちの一人だ。ちなみに、アドリアーンスは、かの屈折の法則で有名なスネルから学んだオプティシャンである。
彼は、沢山の発明を行ったらしいが、死の直前に彼の要求で全て破壊されてしまったとされ、1571年生まれであったこと、1607年の特許、おそらく1624年から31年までのいずれかのタイミングで死去したこと以外にはあまり知られていない。
リッペルスハイの特許出願から三週間後、メチウスはより優れた装置を作ることができるとオランダ政府への説得を試みた。けれども、政府がリッペルスハイを高く評価していることを知ると、メチウスは特許出願を自ら取り下げ、自らのデザインを公表することを拒んで秘匿してしまった。
ちなみに、この時代のレンズ職人は業界全体が典型的に秘密主義的だった。メチウスが技術を秘匿したこと自体は特別に異常なことではなさそうだ。むしろ、リッペルスハイらが特許取得に動いたこと自体が目立った出来事だった。
さらにいうと、スネルによる屈折の法則も、70年ほど後になってホイヘンスに取り上げられたことによってようやく価値を見出されるようになる。
ザハリアス・ヤンセン
メチウスが亡くなった後、追加の論争があった。
リッペルスハイと同じミデルブルグでレンズ職人をしていたザハリアス・ヤンセン(1590年頃、父親のハンス・ヤンセン(Hans Jansen)とともに2枚のレンズを組合わせた顕微鏡の原型を発明したとされる人物の一人、もっともこちらの話も所説ある。)
は、メチウスが1620年に彼と父親から古い望遠鏡のデザインを購入したと主張した宮廷で証言したのである。もっとも、この証言は多くの人が疑っている。
そして、、ヤンセンの息子サカリアセンからレンズ研磨を習った人物の日誌によると、サハリアスが望遠鏡を作ったのは1604年で、あるイタリア人の所有する1590年と書かれた望遠鏡を真似て作った、、、と。
結局、誰が望遠鏡を発明したのか?
結局、望遠鏡を誰が発明したのかは不鮮明だ。
概念的に望遠鏡のアイディアを説明している人物はそれ以前に何人もいる(デカルトやロジャー・ベーコンなど)。
すでにオプティクスについてかなり深い考察がなされていた時代で、少し前の時代にはイスラム科学の中で熟成した光学の数学的記述法がかなりヨーロッパに紹介されていた。
同時代にはスネルによる屈折の法則の再発見も記録されている。 もともと、実用化まで秒読み状態だった。
そしてその直後に天体に望遠鏡を向けたのは、トーマス・ハリオット、ガリレオ・ガリレイやケプラーなどだった。
前史についても面白いので、いずれ遡って記事にしようと思う。
参考文献:
- Pioneers in scientific discoveries, Kalayya Krishnamurthy
- ヘクト 光学〈1〉基礎と幾何光学, Eugene Hecht
- Wikipedia
- Encyclopedia Of Astronomy And Astropysics, Telescope in History http://www.astro.caltech.edu/~george/ay20/telescopes-history.pdf